なぜ、正月に祭りは必要なのか?



パーン・・・パーン・・・ドンドコドンドン・・・






燃え盛る炎のなかで、パーンとはじける竹の音。

まさに”破竹”。

火のもつ圧倒的なパワーを感じずにはいられない。

太鼓の音も混じり合い、祭りは最高潮に達していく。



先日、竹工家の友人と一緒に見た、赤塚の田遊び祭りでの一幕である。



田遊び…

年のはじめに一年間の農耕サイクル(豊穣までの営み)を演じることで、実際にその年が五穀豊穣と子孫繁栄に恵まれるよう願う祭りである。

(今回の細かな流れは、竹工家の友人のブログを参照して下さい)


例えるならば、ココリコ遠藤氏が来年の阪神タイガース優勝を目指して、シーズン前にもかかわらず、予めビールかけ祭りをやったあれ(ガキの使い)みたいなものである。



まぁ、この例が正しいかどうか別として、要するに実現してほしい内容をあらかじめ模倣することで、その行為に神や精霊が感応して同じ結果が得られる!という呪術的要素の強いものである。

これは折口の感染予祝論ってやつで(フレイザーの呪術論が基礎)、やっぱ折口すげえな!ってな解釈である。



でも、それだけでは説明がつかない部分も実は多々ある。



今回祭りをみていてもそうだ。

神の化身ともされる翁や媼(おうな)がなぜ出てくるんだ?



天狗まで登場するのは、なぜだ?





そんな疑問に答えるためには、祭りのそもそもの本質をおさえなくてはならないだろう。

(その上でタイと比較せねば)



じゃあ、田遊びの本質とは?

それは、祭りが正月(旧正月)に行われるという点から組み立てなくてはならない。



エリアーデ によると、正月は天地創世が象徴的に再起されるとき、である。

だから年頭行事というのは、共同体を始まりの時間と空間に立ち戻すために行われる。



で、そんなエリアーデの考えを基礎としつつ、稲作儀礼の田遊び論として展開させた諏訪春雄氏の意見は説得力に満ちている。(やはり諏訪さんは天才的!!!)


田遊びの目的について、氏は言う。

「稲作の祭りはひろい意味での来訪神の儀礼のなかにふくめて理解すべきもの・・・民族の最高神が祖先神とともに子孫のまえに出現し、ことば、文字、農耕、生殖、葬式などの文化と技術を伝授してくれた始まりの時間を再現することによって、その文字と技術が正しく子孫にうけつがれていることを確認し、神々に感謝し、その加護を祈願することに祭りの根源の目的」があるのだ。
(『日中比較芸能史』)



要するに簡単に言ってしまえばこんな流れだろうか。


年が更新される年始。 新たな秩序が再生されるとき。

祭りによって、共同体の再生を象徴的に示すことが必要となる。



祭りの空間に流れるのは、共同体の始源の時間。

我々のもつ時計的時間感覚では説明がつかない特別なものである。



そんな空間に立ち現れる最高神と祖先神。

祭りの演者はその神たちとともに、文化が正しく継承されていることを儀礼(ここでは田遊び)を通じて示す。



神々に感謝する。

そして、これからもよろしくね、と祈る。




こうした視点で祭りを見ると、翁・媼も天狗の登場もストンっと納得のいくようになるだろう。

確かに田遊びは予祝の祭りであり五穀豊穣を一応の目的としてはいる。

でも、その背後には神・祖先神による共同体の始まりの時間と空間の観念が存在していて、そのことが抜けると、田遊びの本当の意義が見失われる。

そう、田遊びを始めとした年頭行事というのは、共同体を”再生”させるために時間を始まりに戻すこと、そこに本質的な意味があるのである。




とまぁ、こんな感じで簡単に祭りの大きな背景を確認したところで、次からは田遊びを構成する儀礼のいくつかの象徴性に焦点をあてつつ、タイと比較していこうかなと思っているところである。





余談ではあるが。

祭り鑑賞中、竹工家の友人は何度も「ありゃ○○竹だ」とか言ったり、近くの竹林を懐中電灯片手に見に行ったりしていた。


「今、田遊びをみているギャラリーで、その視点から祭りを眺めているのはお前だけだろ。笑」と、何度言ったことだろう。

でも、おかげで僕も竹ばかりが目に入り、次回からはそのへんも視点に入ってくることになりそうだ。

実はタイの諸儀礼・祭りも竹が使われまくってるんだよねぇ。



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